結火・むすび / Vol.03

朝ごはんに食べる、お味噌汁の大根。お昼ごはんに食べる、サンドイッチにはさまれたレタス。夜ごはんに食べる、チキンの煮込みに入った、トマト。いつも何気なく食べている野菜。誰がどこでどんな想いで育て、私たちの食卓へ届いているのか、想いをはせたことはありますか。

「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人の1人に、有機野菜を作っている全国の農家のひとたちとわたしたち生活者の間を結んで、農薬を使わず、丁寧に作られた野菜を届けるためにこの数10年走り続けてきた、藤田和芳さんという方がいます。

彼は「1本の大根からはじめよう」を合い言葉に、約30年前、「大地を守る会」というNGOをつくりました。

「つながってるって気持ちを確認しながらみんながちょっとずつ何かする。隣の人と繋がってること、その先に地球や宇宙と繋がってる意識を持つ。それが正しい運動の姿だと思う」

長年の経験と共に、熱い想いを身体にしみ込ませている藤田さん。今日は藤田さんのいままでとこれからについて、お話を聴いてきました。



藤田和芳 ふじたかずよし
大地を守る会 会長/100万人のキャンドルナイト呼びかけ人代表

1947年岩手県生まれ。出版社に勤務するが、農と食への関心が高まり、土日を利用して無農薬有機野菜の引き売りを始める。1975年、環境NGO「大地を守る会」を設立。日本で最初に有機野菜の生産、流通、消費のネットワークづくりをしながら、経済合理化を善とする文化状況に異を唱え、さまざまな運動を展開する。 現在、大地を守る会会長、株式会社大地代表取締役、亜細亜農民元気大学理事長などを兼任。

時は1960年代後半のこと。

「丸太棒をかついで、防衛庁の扉に体当たりしたんだ。あの扉を叩き壊したら、その先に未来があると思った。」

農家の次男坊として産まれ、故郷の岩手から上京してきた藤田さんにとって、大学に入って知る新しい世界は、全てが新鮮かつ驚きの連続でした。彼の目に飛び込んできたのは、お隣の中国で起こった文化大革命、そのすぐそばで勃発したヴェトナム戦争。東大や早稲田の学生達が、日米安保反対や沖縄基地反対を叫んで立ち上がる様子。

上智大学の学生だった藤田さんも、学生運動の騒然たるるつぼへと巻き込まれていきました。

あの山を越えて大海に泳ぎだしたらきっと何か新しい未来が待っているに違いない。中高生の頃、郷里の山々を仰ぎながら、その先に広がる大都会へと想いをはせてきた藤田さんにとって、防衛庁の扉は一番最初にたたき壊すべき社会の大きな壁でした。藤田さんだけでなく多くの学生が、その扉の先にきっと哀しい戦争の終結と自分たちが望む次の未来が待っていると信じて疑わなかったのです。

「でも結局、我々は敗北したんです。」

若い学生たちの信じる心は、国の力を前にあっけなく終わりをつげます。バリケードは機動隊によって解体され、仲間の輪も崩壊し、みんなちりぢりとなって平凡な就職をします。藤田さんもある出版社につとめ、何事もなかったかのように仕事を始めました。

「ずーっと、もやもやした気持ちが消えなかった。田舎を出て何かを成し遂げたいと思ったあの気持ちはなんだったんだろう。何をどういう風に失敗したんだろう。頭の片隅にいつもそういう気持ちがありました。」

長い間悩み続けた藤田さんはある日、気づきます。

「自分は、上から物事を変えようとしていたんだ。大きな政治権力を握ってそれを変えようとしたことが間違いだったのかもしれないと思いました。ぼくはそもそも、農村の出身だったんです。」

そんな藤田さんのもとに、ある大切な出逢いがめぐってきます。サンデー毎日を読んでて知った、水戸で暮らすあるお医者さまとの出逢いです。この出逢いが後に「大地を守る会」を作る大きなキッカケとなります。

藤本敏夫
藤田さんのパートナーで、共に大地を守る会を創業した一人に、藤本敏夫さんという方がいます。同志社大学で学生運動の指導者となった後、1972年の防衛庁襲撃事件で逮捕、投獄中に現在は歌手となり、自身も活動家であった加藤登紀子さんと獄中結婚されます。その後、藤田さんと大地を守る会を設立し、最近まで会長をされていました。2002年死去。

記事によると、そのお医者さまは終戦後シベリアに抑留されて、ようやく帰国して日本のある港に降り立ったとたん、いきなり真っ白な粉を頭からかけられたんそうです。その粉は戦争中に目にした毒ガスの原材料と同じものでした。呆然とした彼は日本中を転々と歩き周り、その途上で、田んぼや畑に同じ粉が大量にまかれている姿を目にしました。

その粉が、農薬です。自分たちが食べるものが毒ガスの原材料と同じものを使われて作られているとは。この野菜を毎日食べ続けたら、きっとよくわからない病気が発生して苦しむ人々が増えるに違いない。ぼくは医者なんだから、そういう病気が発生したときに人々を助けられる人になろう。そう決心して水戸に帰り、病院を開業して働く傍らで、近隣の農家の人たちに農薬を使わないで野菜を作る方法を伝え続けました。

自分の原点に立ち返りふるさとへと戻って、自分ができることから始めたこのお医者さまの姿は、その時の藤田さんと重なるものがあったのでしょう。取材のつもりで会いに行ったこのお医者さまの話に藤田さんは深く感銘を受けました。

同時に、無農薬野菜を作っている農家の人たちが、「農薬を使うと見た目は綺麗で味は薄いキャベツができる。農薬を使わないとキャベツの葉っぱに穴はあくけど本当に美味しいキャベツができる。だけど、葉っぱに穴があいているものはどうしたって売れない」と言う声を耳にしました。彼らの声を実際に聴き、その野菜を口にした藤田さんは、どうしてもこの野菜を売りたい!心の底からそう想い、自分がその結び手になることを決心したのでした。
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