結火・むすび / Vol.12
清少納言
平安時代の女性作家。10世紀後半-11世紀初期。「夏は、夜。月の頃はさらなり。」は著書『枕草子』の一節「闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。」からの引用。「夏は、夜がよい。満月の時期はなおさらだ。闇夜もなおよい。蛍が多く飛びかっているのがよい。一方、ただひとつふたつなどと、かすかに光ながら蛍が飛んでいくのも面白い。雨など降るのも趣がある。」の意味。
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夏至は、太陽が出ている時間が一年で最も長くなる一日です。太陽が昇る位置も高くなることから、正午にはほとんど真上から照らされ、影の長さもとても短くなります。

日が出ている時間が長くなる夏の夜は、「短夜(みじかよ)」。今から1000年ほど前、清少納言は「夏は、夜。月の頃はさらなり。」と書きました。厳しい太陽の光が去ったあと、さらさらと涼しい風が広がる夜は気持ちのよいものですよね。

また、電灯がなかったこの時代、恋人たちの逢瀬は月灯りをたよりに交わされました。短くなる夏の夜には、短いからこそよりいっそういとおしく、大切に相手を想う時間を過ごしていたことでしょう。

夏至の短夜、あなたはどんな火を灯しますか。
世界中にキャンドルの灯りが広がる今夜は、火のお話をお届けします。


火打ち石
かまどや灯明、たばこの火の火付けに使われた石。江戸時代では、職人や花柳界の人びと、危険な職に就いている人びとが、これから仕事に出かける際に、切り火をして出かけていきました。火の神は、家を守る最高神とされ、火には、呪術的な魔除けの力があるとされたことから、切り火は、邪をはらい浄化するための行為と考えられていたのです。浅草など東京の下町では、まだこの習慣が根強く残っています。

「人」と「火」は、切っても切れない絆で結ばれています。はるか昔から、火には呪術的な力があると信じられ、厄災を祓(はら)う強い浄化力があるとされてきました。21世紀の今でも東京の下町では毎朝、火打石で浄めの火を切る習慣が根強く受け継がれています。

とどまることなく荒れる火を手なずけ、統御するには、豊富な知識や技術、経験とともに特異な力も必要とされました。火の性質を熟知し、祭りや儀式で火をあやつる長老は「聖(ひじり)」と呼ばれ、特別に崇拝されたそうです。「ひじり」は「日知り」から来ており、太陽の動きを知る者、暦を司る者の意味を持っていますが、「日」と「火」が同一視されたことから、「火知り」とも考えられるようになりました。

火を聖なるものとしたのは、日本だけではありません。オリンピックの「聖火」もさることながら、火の存在に感謝する「火祭り」は世界のあちこちで行われます。


人が暮らしていくために必要不可欠である火は、人の命そのものとして世界中で大切にされてきたのです。

とはいえ、火そのものの姿を見ることは、今の暮らしの中ではそうそうないことです。ほんの5、6年前まで見られた民家で古新聞や枯れ草を燃やす様子は、あまり見られなくなり、焼き芋も出来上がった姿でスーパーに並んでいますね。煙草の火もライターなので、お父さんのマッチで火遊びをして怒られる子どもは少なくなっていることでしょう。わたしは火遊びが好きな子どもだったので、秋の日に祖父の家の庭で燃やした枯れ草も、その中に隠れていた焼き芋も、父のマッチをくすねては隠れてこっそり火をつけたときの、あのなんとも言えない火の香りをとても懐かしく思います。

 

今の暮らしの中でもっとも身近な火といえば、台所のガスコンロの火です。弱火から強火まで簡単に調節できて、いつも一定の様子で燃えています。これはとっても便利。しかし、火はゆらゆらと揺れて、一秒たりとも同じ姿で燃えないのが、本来の火の姿ですし、当然のことながらガスコンロからはあの懐かしい香りがただよってくることはありません。

先日、京都の智積院で行われた「青葉祭」を見ました。
覚鑁(かくばん)と空海の誕生を祝う祭りでは、嵯峨御流の献花が厳かに行なわれます。修験者が護摩木を天高く焚きつけた火は、豪快に燃えあがり、空へ空へと大きくたちのぼって、恐ろしいほどの迫力を見せました。修験者たちが唱える声と、もくもくと雲のように昇る煙とが重なって、あたりは荘厳な空気に包まれ、わたしの心の中はとても静かになりました。次々と表情を変える火は、世の中のすべてのものは、何一つ永遠ではないことを教えてくれました。

わたしたちが暮らす日本は、本当に、とても便利な世の中になりました。都会で暮らしていればなおさらのこと。家から一歩もでなくても、インターネットでたいがいの買い物を済ませられます。どこかに行こうと思えば、電車もバスも飛行機も定刻通りに動いています。


携帯電話があるから、いつでも誰とでも会話ができます。暮らしていくためにこれらのモノを消費するときに、紙のお金さえ必要ありません。目に見えないお金、電子貨幣で全てのものが手に入ります。気がつけば、手塚治虫が描いた、機械が作っている世界は、いまわたしたちが生きている世界です。

ゆっくり判断する間もなく、簡略化された選択のなか暮らしていると、身の回りはもうお腹いっぱい、というほどモノに満たされていくのに、こころにぽっかり穴があいてしまったような気になります。機械が作った世界は綿密な計算で仕組まれ、よっぽどのことがない限り狂うことはなく、ガスコンロの火のようにまったく同じ姿でわたしたちを守ってくれます。

そうこうしているうちに、紅葉の渓谷や、欠けていく姿が美しい器、わずかな間しか見られない蛍の光など、姿を変えるから美しいものを、美しいと感じる力をこころが失ってしまいそうです。そればかりか、そんなこころでは、この便利な世界は永遠に形を変えないものかのように、錯覚を起こしてしまうかもしれません。




でも本当は、火の表情にもひとつとして同じものがないように、生きているものの中に、完璧なものは何一つありません。携帯が壊れたらつながらなくなる人間関係はさみしいものですし、クリックひとつで手に入れた冷凍食品ばかり食べていたら、舌は食べ物の旨味を感じることができなくなってしまうでしょう。人間のこころもひとつひとつ違い、常に変化しています。こころで感じ、手でつくってこそ、味わい深い暮らしを送れるようになります。

夏至のこの時期には、「夏枯草(かこそう)」という花があります。夏枯草にはその花穂に紫色の花が咲きますが、その後、枯れて茶色くなった花穂は漢方薬に用いられます。煎じて飲むと利尿や、血圧を下げる効果があるそうです。

春、夏と経てどの花木も青々と茂り、色とりどりの顔を魅せる中、夏枯草は待っていましたといわんばかりに、枯れていきます。花は満開に開いている姿こそ美しいと思われがちですが、夏枯草のように、枯れていく時期が自らの命の一番大切なときとなる花もあるんですね。

終わっていくことを美しく想い、その姿を見つめることは、次の未来へとつながります。夏枯草が枯れて終わりをとげ、また次の夏には咲いて、すぐに枯れるように、自然はめぐりめぐって生きています。四季が移り変わり、時が経過していくことを見つめていると、ぽっかり空いてしまったこころの器は、少しずつ満たされていくようです。

今夜は短い夏夜、でんきを消せば、あなたの心にも灯りがともります。その火は、瞬間、瞬間、姿を変えるほんとうの火の姿です。仲間とお酒を呑みながら語らうのもよいでしょう。恋人とふたりで静かに食事をするのもよいでしょう。お父さんは、子どもに絵本を読んであげてはいかがでしょうか。火を囲んで語らえば夜の静けさも手伝って、ふだんは言えない言葉が紡がれるかもしれません。

朝日が昇ってくるのが早いこの時期です。キャンドルナイトはあっという間に過ぎ去ってしまいますが、短いからこそ、何ものにも代えがたい価値が生まれます。それは、人と自然だけで形づくられる、最高にぜいたくな時間です。

形を変えないビルの谷間に、自然の灯りを流せば、こわばったこころがあたたかく溶けて、変えられないものを受け止め、変わっていくことを優しく想うようになります。世界中の人のこころにキャンドルの灯りがともる今夜、宇宙から見る地球は暗闇のウェーブをつくり、みなさんのこころの灯りが火の色の天の川を描きます。

むすび書き:香音(かのん)



暦の待ち受け画面ダウンロード
http://www.hijiri.jp/m/0622.jpg(48KB)

今回の暦の待ち受け画面
夏至の日の今日の待ち受け画面は蛍です。蛍の灯りは、ルシフェリンとルシフェラーゼという物質の反応によって発光します。ホタルに限らず、生物の発光は電気による光源と比較するととても効率が良く、熱をほとんど出さない発光現象なのです。

「結火」では毎回、メールマガジンの配信と連動して配信された日の暦のケータイ用待ち受け画面をお送りします。その季節を代表する写真の上に、その日の旧暦での日付(2007年6月22日は、旧暦では5月8日になります)

そして、その日の月齢(2007年6月22日は、月齢7.3、もうすぐ上弦の月ですね)が表されています。

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